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​二子棚田の来歴

二子棚田は鴨川市嶺岡の二子集落に位置します。

集落の世帯数は22戸、約60人が住んでいます。

この地の歴史や風土についてご紹介します。

平安時代 棚田と里山の誕生

 

二子の地にいつ棚田が開墾されたのか、正確にはよくわかっていません。もともと千葉の房総半島は温暖であり自然豊かで、旧石器時代から人が住み、稲作は約2000年前の弥生時代から始まったといわれています。その後、1500年~1200年前の古墳時代後期から平安時代にかけて、房総の各地に里山が形成されたようです。二子集落の地主の一人である松本さんが当代で27代目となることからも、この頃に二子棚田も誕生したと思われます。

陽当たりがよく、水が豊富に流れる谷合いを選び、斜面を拓いていった1000年以上前の先人たち。彼らもまた、棚田から海を見ていたのでしょう。

鎌倉時代 英雄の双子の娘

 

「二子」という地名は、鎌倉時代の初期に付けられたそうです。源頼朝の臣下であり、名だたる板東武者であった畠山重忠が、曽呂村(現:千葉県長狭郡)の畠山四郎右衛門の屋敷に滞在した折、四郎右衛門の美しい娘を見初めて双子の女の子をなしたそうです。名将の誉れ高い父と、美しく可愛らしい二子の女の子たちを、土地の人びとは大いに歓び、以来、この地は「二子」と呼ばれるようになりました。

江戸時代 幕府の天領地として

 

戦国時代から房総エリアでは里見氏(八犬伝で知られていますね)により馬の放牧が行われていました。その後、江戸幕府はこのエリアを天領地「嶺岡牧」として、馬の生産を行っていたといいます。今もその名残として、野馬土手が残っています。二子棚田は、この嶺岡山系に抱かれるように位置しています。木更津方面からは、嶺岡林道を通って二子棚田へとアプローチするとなかなか野趣あふれるドライブが楽しめます。

 

嶺岡の湧水を棚田に

 

鴨川市の中央を東西に横切る嶺岡山系は、千葉県では最も標高が高く(といっても最高峰の愛宕山で海抜408メートルです)、自衛隊のレーダー基地が関東の空を守っています。この山系は湧水が多く、古来より馬の飲み水や棚田の用水に利用されてきました。二子棚田の水もこの湧水と、天水(雨水)に頼っています。二子棚田の土は非常にキメ細かで重い粘土質で保水力が高く、そのぶん耕作も大変ですが、ここで育つお米はモチモチとした食感と雑味のない甘みでたいへん美味しいと好評です。二子棚田ならではの自然環境のもと、農薬類の使用を最小減にとどめ、自然の恵みと手作業でつくる棚田のお米は、ちょっと小粒でチャーミング。将来ブランド米になるかもしれません!? 

 

天狗が出る 狐火が燃える

 

二子棚田の西には霊峰「高鶴山」があります。その昔、干ばつの時に、高鶴山の神さまと星が結ばれて天の川から田んぼに水が注がれたという言い伝えがあるそうです。また、ここには天狗が住んでいたらしく、最近まで夜になると狐火が見えたそうです。夏の蒸し暑い夜によく出たとか。

 

二子棚田の動物たち

 

周辺には二子の他にいくつもの集落があり、小さな棚田が存在しています。街道沿いの平地の田んぼとは違い、山に直接つながる棚田にはたくさんの人間以外のゲストが訪れるのですが、稲や農作物を荒らすのが問題です。イノシシ、ニホンザル、ニホンジカ、キョン、ハクビシン、タヌキ、アライグマなどが出没します。二子棚田では、田んぼの周りに太陽光発電を利用した電気柵を設けて予防しています。作業中に彼らを見かけることはほとんどありません(声が聞こえることはあります)。いっぽう、電気柵の中で暮らす野ウサギ一家や、柵を飛び越えてくるキジやカラスは防ぎようがありませんのでスルーしてください。ただ、マムシにはくれぐれもご注意ください。

 

里山の美しい景観を大切に

 

東京湾アクアラインを使うと、都心から片道2時間程度。オーナー制度を利用し二子棚田に集う人びとの多くは、首都圏から休日にやってきます。皆、この美しい景観と農作業で汗を流すことを愛し、かけがえのない時間をくれる二子棚田に感謝して、それぞれが自主的に棚田の維持管理に努めています。農作業に参加する私たちは、この地の歴史と自然、文化を今日まで守り続けてきた地元の皆さんをリスペクトし、マナーを守って、二子棚田を未来につなぐお手伝いができればと願っています。

※参考資料

「ちばを知ろう」千葉県の食に関わる歴史(千葉県 安全農業推進課)

「ふさの国今昔」酪農発祥の地と棚田景観(千葉県 教育委員会)

大谷貞夫「江戸幕府の直営牧」(岩田書院)

有害鳥獣対策(千葉県 農林水産部)/その他

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